Anorak citylights

レコードを買ってから開けるまでのドキドキとか、自転車のペダルを加速させる歌や夏の夜中のコンビニで流れる有線など些細な日常とくっついて離れない音楽についての駄文集 twitter ID→ takucity4

小袋成彬とSEVENTEEN AGAiN 分離派の脅威

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小袋成彬という音楽家がいる。宇多田ヒカルプロデュースによるアルバム《分離派の夏》をリリースした、気鋭の人物だ。枕詞が目立つ事もあり、随分話題である。彼のバイオグラフィはこの際置いておこう、誰もが彼を認識しその挙動に固唾を飲んでいるものとして話を進めたい。
彼の音楽性や歌詞の世界観への言及やも今回はなるべく省略する。とても重要な標題であるが、これも今は必要ないと思えてならない。ひとつだけ言わせてもらうならば、彼の音楽を所謂インディーR&Bや諸々の文脈だけで語る事は、あまりに面白くないという気持ちは確かにある。
とにかく僕は《分離派の夏》がリリースされてからというもの寝る間も惜しんで聴いており、通勤中や休み時間等にはインタビューやらレビューやら彼についての文献を片っ端から読んでいるところ。最大の興味は、《表現の対象》つまるところこれだ。《誰に向けて歌ってるの?》ってこと。僕にはとってこの標題はある意味歌詞の中身よりも重要で、できるだけ自分に近しいポジションへの発信を望んでる。これは《共感》やその類いの言葉で形容してくれても構わないし、その音楽への理解に当たり必要であるものと捉えている。
オホン。話を本筋に戻す。realsoundのインタビューで僕の疑問に対する答えが明示されていて、《自分のために曲を作っている》という発言があった。《本当にそうなの?》と僕は思う。僕にはこの作品が自分の内側だけに向けられたような閉鎖的なものには思えない。もちろんある種の内省は含んでる。大いにあると思う。でもそれは他者との繋がりを否定する類いのものではないし、個として自分自身と徹底的に向き合った時に生じる摩擦程度でしかないはずだ。《自分のため》と言い切れるほど、自己完結できるほど収まりが良い作品じゃないように思えた。
歯痒さを抱えながらも彼の音楽を聴き進め、文献を漁っていたある日、突然それは府に落ちた。《SWITCH》でのインタビューが摩天楼の雪を溶かしたのだ。こんな問答がある。

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インタビュアー『タイトルの"分離派"の定義とは?』

小袋『社会に溶け込んでいながらも、違和感を抱えた人を指したつもりです』

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僕は思わず膝を打った。彼のいう《分離派》が彼の発言が意図するそのままだとしたら、《分離派》は恐らく彼自身のことだし、多くの友人のことだし、社会と対峙しながらも《現状への違和感》を常にもて余す我々のことだ。
僕は《自分に向けて曲を作っている》という彼の発言を、《自分と同じような多くの人々に向けて曲を作っている》と翻訳する。そうでなければ、《分離派の夏》がここまで多くの人々に受け入れられる理由付けができないじゃないか。決して強引な解釈ではないと願う。
さて、この《分離派》について歌い続けているソングライターを僕はもうひとり知っている。厳密にいうと、彼は《分離派》という言葉を一度たりとも使っていないはずだ。だが、その《表現の対象》はまさしく《分離派》の領域に限りなく近い。
立っているフィールド、世代、音楽へのアプローチ、言葉の捉え方、アティチュード、身長、家族構成、生きざま。全てが異なるものの、彼自身が《分離派》であり、それを《少数の脅威》とも読み替える音楽家SEVENTEEN AGAiNの藪雄太である。
デビュー以来彼は一貫して、《あらゆる人間が抱えるズレ、違い、差異、違和感、歪さ、その他マイノリティとなり得る要素を全面的に肯定する》歌を紡ぎ続けてきた。僕達の体は、この世界で暮らしていながらも決して一言では括れない複雑なそれで構成されており、ひとりとして同じ個体はない。だからこそ誰もが《少数》を内包するし、《孤独》であるし、《何かしらの違和感》を持って生きている。それこそがつまり《分離派》の指すそれとほぼ同義であるように思えるのだ。
藪雄太は《分離派の夏》を熱心に聴いていると語っていた。そこに前述したような因果はないかもしれない。
それでも、だ。それでもなのだ。小袋成彬SEVENTEEN AGAiNがより大きなフィールドで鳴らされることを僕は夢想するし、そうなるべきだと心底思う。だって我々はこんなにも孤独で、静かな違和感を胸に生きているのだから。
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